色覚補助メガネ
以前、色覚補助メガネについての話をした(https://www.kazetabi.org/post/glasses)。この時は主に視点が変わること、すなわちパラダイムが変わること、という切り口からの話であった。色弱の方が色覚補助メガネをつけることで世界が全く違ったものに見える、そしてそれと同じような経験を我々はパラダイムが変わることによって経験する、という内容である。
しかしこの色覚補助メガネの話には別の切り口があることの最近気づいた。それはこの色弱の方と色覚補助メガネとの関わりの話の中である想像が働くかどうか、ということである。
もし私たちが見る世界に色が無かったら、そこまでいかなくとも一部の色が鮮明でなかったら、世界は我々の目にどのように映るだろうか、という想像である。
もし色を感じることができなかったら
想像力を働かせてみよう。一体、今目の前にある景色に色が無かったら、我々はどう感じるだろう。
もしパソコンの画面が白黒だったら。
もし外の景色、緑の木々や様々な色の花に色を感じることができなかったら。
親しい友人は家族の顔や服装がモノトーンだったら。
空が常に灰色に見えたら。
美しい絵画に微妙な色合いを感じることができなかったら。
果たして今のように自然に感動することがあるだろうか? 大好きな異性に心ときめくだろうか? 映画にのめり込むことができるだろうか? 色の使い分けで効率化していた仕事の作業はどうなるのだろう。
ここまで深く広く想像力を働かせると、強く感じることがある。
今、当たり前のように色を感じていることは何と有難いことなのだろう。どれほど我々はこの健康な視覚に恩恵を受けているのだろう。
人は失なって初めて当たり前のことの貴重さに気づく。当たり前のことは決して当たり前では無いのだ。色々な偶然が重なった結果だし、そしてとても有難く貴重なものなのだ。
「もし~がなかったら」と想像力を働かせること
「もし~がなかったら」の~に何かを入れて文章を作ってみてください。こういう問いをすると、大方3タイプの文章に分かれる。
一つは、「もしあの上司がいなかったら、もっと仕事が楽しくなるのに」、「もし毎日のムダな会議がなかったら、時間を有効に使えるのに」といった、身近にあるネガティブなことを当てはめて、想像するケースである。
二つ目は、「もしこの世に病気がなかったら」「もし死が無ければ」「もし戦争がなければ」といった、およそ自分ではどうしもうできない理想を願うようなパターンである。
そして三つめが、「もし色を感じることができなかったら、世界はどう見えるのだろう」という、我々が当たり前と思っていることが無くなったら、という想像である。
想像力の働かせ方には色々なやり方があるが、この三つ目の「自分が当たり前に持っているものがなくなったら」という問いと、それに対する想像力は、とくに有効な方法である。自分の現状を良く知り、当たり前のものの価値を再確認し、そして感謝の気持ちが芽生えさせる、とプロセスをたどるからである。
もし親がいなくなったら・・・
もし会社が無くなったら・・・
もし歩けなくなったら・・・
もしパソコンやスマホがなくなったら・・・
もし車やバスや電車が止まってしまったら・・・
もしペットがいなくなったら・・・
我々が当たり前のように見て、使って、利用して、触れ合っているものは、それぞれが決して当たり前のものではない、ということに気づくはずである。そして、とても有難いものだということを再確認し、そして感謝の気持ちを持って、十分味わって優しく接する、そういう気持ちが芽生えるに違いない。
日々の生活の中に「もし~がなかったら」という問いを持つことが必要だと感じた次第です。
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